ヒッポドロームと呼ばれる広場にやってきました。
ここはブルーモスクの隣にあり、
ビザンツ帝国時代に競馬や戦車競走が行われた競技場でした。
競技場の広さは長さ450m、幅130mあり、10万人の観客を収容できたといいます。
この競馬場は市民生活の社会的中心でした。
競馬場では年間100日以上、1日に何レースもの戦車競走が開催されていたみたいです。
おっと何やらでかい尖塔が…
これはオベリスク(古代エジプト時代、神殿などに立てられた記念碑の一種)と呼ばれるものです。

このオベリスクは、テオドシウス帝がエジプトから運ばせたものらしいです。
もともとは、ルクソール(テーベ)のカルナック神殿にあり、BC16世紀頃にエジプトのナポレオンと呼
ばれるトトメス3世が建てたものです。

オベリスクの下には大理石製の台座が取り付けられてます。
これは、テオドシウス帝の時代のものです。

競技の勝利者に花輪を手渡すテオドシウス帝や、観戦するテオドシウス帝や皇太子の姿などが刻まれ
ています。


下の写真は、青銅製の「蛇の柱」と呼ばれるものです。
先端が失われていますが、本来は3匹の蛇が巻き付いた姿でした。
最上部には蛇の頭とそれに支えられた黄金の杯がついていたといいます。
もとはギリシアのアポロン神殿にあったもので、テオドシウス帝がここに移しました。

穴の中にあるように見えますが、柱の立っている底の部分が当時の地面の高さです。


下の写真は「ドイツの泉」と呼ばれるものです。

ドイツのヴィルヘルム2世から寄贈されたものらしいです。
ドイツとトルコって仲良かったんだ!
そう!ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国はドイツと仲良くなることで、活路を見出
していたかもしれません。
また、ドイツもオスマン帝国を利用します。
ドイツの3B政策(ベルリン、ビザンティウム(イスタンブル)、バグダードを結ぶ世界政策)
にとってここは避けて通れない重要な拠点ですからね。

バルカン戦争に敗れたオスマン帝国は、第一次世界大戦時にはドイツ側に加担し、敗戦国となってしまいました。
混乱の中、オスマン帝国は滅亡し、トルコ共和国が成立しました。

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